僕が、ショアGTを始めたキッカケの話。

 

今日、36歳の誕生日を迎えて、いろいろ想うことがあったため、書き残しておきたいと思う。

 

 

そもそもの始まりといえば、メッキ釣りだった。

 

小学生の頃、なにかの釣り雑誌で見たのだと思うが、黒潮に乗ってやってくるメッキ(ギンガメアジやロウニンアジの幼魚)という、南国からの来訪者たちの存在を知った。

 

巨大なジャイアントトレバリーの子供である彼らは、死滅回遊魚といって流れついた先では冬を越せないで死んでしまうという物語に、感動と同時に、なんだかもの悲しい気持ちも混じって、胸を熱くしたことを覚えている。

 

海の無い岐阜県に生まれた僕は、父親に頼んで、愛知県の知多の火力発電所の排水口や尾鷲、和歌山の紀ノ川などに連れていってもらい、メッキに熱を上げた。

 

自転車でも行ってみようとしたこともあったが、小学生の僕には伊勢湾まで辿り着くのがやっとだった(結局、この頃に釣れた記憶はない)。

 

 

それからしばらくは、バスケを始めたり、ファッションに興味を持ったり、パンクバンドを始めたり、美術を志したりで(どれもモテたかっただけのような気もする。笑)、釣りのことは忘れていたように思う。

 

 

大学に入って自由を手に入れた頃、パックロッドのシーバスロッドと数個のルアーを持って、世界中を旅した。

 

アメリカから強制送還されて、それから日本国内を野宿旅をしながら半年間歩いた。

 

太平洋に添って南西に向かい、毎日ロッドを振って歩いた。

 

昼の間はひたすら歩き、日が沈む前に、釣りによさそうな場所を見つける。夕マヅメにロッドを振って、日が沈んで真っ暗になってしまうと心細い気持ちで雨風を避けられそうな場所を見つけて寝袋に入り朝を待つ。夜が明ければロッドを振って、日が上がるとまたひたすら歩く。そんな半年間。

 

南紀から四国に渡り、四国から九州へ、南西へ行くほど釣れるメッキのサイズは上がっていった。

 

そして、奄美大島に渡り、30センチオーバーのメッキの爆釣を経験した。

 

さらに徳之島に渡ったとき、港内にたまったミジュンの群れの中にルアーを投げ込んだとき、とんでもない大きさのヒラアジがヒットした(今思えば3キロぐらいのGTかオニヒラだったとは思うが)。

 

この魚にはロッドを折られ、南の海ってとんでもないな、と、深く心に刻まれた。

 

体ひとつ、そこに身を置きさえすれば、船に乗ったりなんかしなくても、デカいGTと渡り合える。そんなことを強く想う経験だった。

 

それからまたしばらくは、大学に戻り、卒業して仕事に就き、自分で会社を立ち上げ、仕事だけに没頭して、釣りをしない期間を10年近くを過ごした。

 

 

 

そして、会社も軌道に乗りはじめ、収益と時間の余裕を作れるようになって、あの頃の旅の続きを辿るように、今に至る。

 

 

 

今も黒潮流れる離島の岬に立つとき、気持ちは、あの頃のままである。

 

 

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